ゼミブログ
世界史チャレンジ問題⑨|上越高田駅前教室
2021年10月06日
【世界史の問題にチャレンジしてみよう!】◎新潟駅・東三条駅・六日町駅・長岡駅・上越高田駅・仙台駅の塾、真友ゼミの講師陣による大学受験勉強方法ブログ!
激ムズ☆世界史チャレンジ!! 第9回
第9回 イスラーム世界② ~問題編~
問 7世紀から11世紀におけるイスラーム教シーア派の歴史について、スンナ派との対立を中心に、以下の語句を用いて400字以内で述べよ。
アリー カリフ セルジューク朝 ファーティマ朝 ブワイフ朝
第9回 イスラーム世界② ~解答編~
はい、という訳で今回もイスラーム世界編です。
出題校はまたしても筑波大学です。
これは鈴木せんせーの思い入れ(むかし第一志望だったから)では決してなく、論述題を題材に歴史チェック!となると、どうしても筑波大の過去問(論述しか出ない)を扱うことを避けられないからです。
そのうち、もっとヤバい難易度の大学も扱えたらな、と思っています。
東大とか。(解説はきっちりしますので、ご安心くださいね)
では、毎度恒例・通史チェックから行きます。
今回は「シーア派の歴史」を訊かれているので、シーア派目線で見ていきます!
~シーア派の歴史~
7世紀…第4代正統カリフ・アリー暗殺&ウマイヤ朝成立(by ムアーウィヤ)
→シーア派形成
シーア派…「ムアーウィヤは認めない!」「正統カリフも(アリー以外)認めない!」
=アリーとその子孫のみを指導者(イマーム)として認める
ウマイヤ朝はスンナ派の王朝 …シーア派は少数派に甘んじる
アッバース朝成立の際に支援するも、アッバース朝も同じくスンナ派王朝
…こちらでも少数派に甘んじる
このシーア派勢力が独立国家を作り始めたのが10世紀
…①ファーティマ朝(909~1171)
:シーア派の一派・イスマーイール派(過激派)がチュニジアで建国
「アッバース朝のカリフはパチモンや!ウチがほんまもんのカリフや!」と主張
→イベリア半島に逃れていたウマイヤ朝の残党(後ウマイヤ朝)共々カリフを自称
(※こっちはスンナ派)
アッバース朝を倒すべく東に進出し、エジプトを征服!
このとき、新首都カイロを建設 →カイロは現在、エジプトの首都です!
また、この時期に創立されたアズハル学院は世界最古の大学の一つです!
②ブワイフ朝(932~1062)
:932年、シーア派の一派・十二イマーム派がイランで建国
946年、バグダード(アッバース朝の首都)に乱入!
ブワイフ朝「我々は宗教指導者・カリフの権威を認めます。
だから世俗指導者の地位をよこしなさーーーい!」
→世俗君主・大アミールの称号をゲット!
大アミール「政治・軍事はワタシの仕事。
だからカリフさんは引っ込んでなさーーーい!」
→イスラーム法施行の権限は全て大アミールのもの!
こうして、ブワイフ朝はバグダードを占領した挙句、
アッバース朝のカリフを操り人形にしてアッバース朝の実権を完全掌握!
…しかし、やりたい放題やってきたブワイフ朝にも、ついに年貢の納め時が!
:1055年…セルジューク朝(トルコ系・スンナ派)によりバグダードを奪われる
この時のセルジューク朝のボスがトゥグリル=ベク
トゥグリル=ベク「世俗指導者の地位を(ry)
→世俗君主・スルタンの称号をゲット!
以降、カリフ=宗教指導者、スルタン=世俗指導者という図式が成立しました。
とりあえず、ここまで見ておけば問題は解けます。
でもせっかくだから、ここから先の歴史もちょこっと見ておきましょう!
セルジューク朝…やがて分裂
小アジア(現トルコ)のルーム・セルジューク朝を残し消滅
(※セルジューク朝がバラけてルーム・セルジューク朝だけ残る、だとイメージが掴みにくいかもですが、言っちゃえば新潟県が全部他県に合併されて、新潟市だけ残る、みたいな感じで思っておけばOKです)
この間…アッバース朝のカリフは細々と存続
これを1258年に殺してしまったのが、遥か東からやってきたモンゴル軍!
→チンギス=ハンの孫、フラグがカリフの死亡フラグに…
アッバース朝を滅ぼした後、フラグは同地にイル=ハン国を建国!
イル=ハン国…もともとはモンゴル人の国 宗教は仏教
(※モンゴル帝国ではチベット仏教が保護されていました)
しかし、第7代・ガザン=ハンのときにイスラム教に改宗
一方、ファーティマ朝もやがて滅びます。
…クルド人の武将サラディン(サラーフッディーン)が1169年、ファーティマ朝を倒す
→エジプトに新たにアイユーブ朝を興します。
このアイユーブ朝は、1250年、軍人奴隷(マムルーク)によって乗っ取られます
→この王朝を、そのまんまマムルーク朝と言います。
ひとまず今回はここまで!
それでは、今回の解説をもとに「7~11世紀のシーア派の歴史」についてまとめてみましょう!Let’s try!
解答:
7世紀に正統カリフのアリーが暗殺され、ムアーウィヤによりウマイヤ朝が建国されると、アリー以前のカリフ及びムアーウィヤの正当性をアリー支持者は否定、アリー及びその子孫のみを指導者として認めるシーア派を形成した。シーア派勢力はウマイヤ朝期には少数派であり、アッバース朝期でもその立場は変わることはなかったが、10世紀になるとチュニジアでファーティマ朝を興し、アッバース朝のカリフの権威を否定しカリフを自称、エジプトに勢力を伸ばし新都カイロを造営した。
一方、イラン高原でもシーア派勢力がブワイフ朝を建国し、946年にバグダードを制圧。ブワイフ朝はアッバース朝のカリフの権威は認め、大アミールの称号を得てカリフに代わりイスラーム法施行の権限を得た。しかし11世紀になると、トゥグリル=ベクの率いるトルコ系・スンナ派国家のセルジューク朝により駆逐、バグダードも占領され、ブワイフ朝は世俗的支配権も奪われて滅亡した。